昭和産業ストーリー1

不屈の精神で創業の夢をかなえる
創業者・伊藤英夫の熱い想いと飽く無き挑戦

伊藤英夫
伊藤英夫

千葉県九十九里浜の一角にある漁村の家に次男として生まれた伊藤は、子どもの頃から負けず嫌いで自立心が強かったそうです。就職の際、「故郷と関係のある仕事をして学歴に縛られることなく、将来独立してみせよう」と決心。当時、日本一の肥料商として名高かった鈴鹿商店で販売から経営までを学んだ後、伊藤英夫商店の開業を経て1923年(大正12年)に日本加里工業株式会社を設立。化成肥料の製造・販売をスタートしました。

ところが念願の独立を果たした矢先の1923年9月1日、関東大震災が発生。完成間近だった工場も崩壊してしまいどん底に。しかし、1週間後には事業を再開します。その後、不屈の精神で肥料事業で大成功を収めた伊藤は、1931年(昭和6年)に2社目となる日本肥料株式会社を設立します。

その頃、日本では工業化が進んでいましたが、深刻な食糧不足に加え、凶作が続いたことで農村はひどく疲弊していました。その光景を目の当たりにした伊藤は「日本の農業を支えたい」と一念発起。農産物の加工を担うべく昭和製粉株式会社を立ち上げ、翌年の1936年(昭和11年)に昭和産業株式会社を設立、ほどなく、先に設立していた3社を昭和産業に吸収合併しました。

新会社設立以降は、肥料、製粉、製油、製飴といった工場のほか、化学薬品、紡績、製麦工場なども竣工。幅広い分野を手がけるようになった昭和産業は、土づくりから製品加工、販売に至るまでの一貫体制を確立し、農産加工分野における有力企業として注目されるようになりました。

日本加里工業株式会社
日本加里工業株式会社

同業者から「鬼将軍」と呼ばれるほどの厳しさを持っていたという伊藤。その一方で、新入社員が「専務」と呼んだ際には「そんな柄じゃない。大将とかおやじと呼んでくれ」と言うのが常で、社長に就任してからも社員や取引先の多くは「おやじさん」と呼んでいたのだとか。
また、呼び名に違わず、荷づくりの手ほどきから仲人まで、広く社員達の面倒を見たとのことです。伊藤のリーダーとしての強さ、人に対する温かさをもった経営は、昭和産業が今日まで発展してきた歴史の基盤となっていることは間違いありません。